侍騎兵 秀当
      



04

 風呂から出てきた当麻は、自分のベッドに突っ込んでおいた秀が目をしっかり開けているのを見て、少し驚いた。
「あれ、まだ起きてたのか」
「う、ああ、まあ」
 歯切れの悪い秀の返答に、首にかけたタオルで髪を拭っていた手を止めた当麻は、軽く眉を顰めて秀に顔を近づけた。
「大丈夫か。気分が悪いか?」
「いや、違う。大丈夫」
 少しうろたえているような短い返事に、当麻は少し首を傾げながら、掌を秀の額に乗せた。
「いっ?」
 そんなことをされるとは全く思っていなかった秀が思わず声を上げると、当麻は笑った。
「平気そうだな。顔が赤いから、熱でも出したのかと思った」
 秀は返す言葉が見つからなかった。
 顔が赤いらしいよ俺。あろうことか当麻に指摘されちゃったよ俺。笑われてるよ俺。
 そう思うと、全身が茹蛸になったんじゃないかと思うほどにかーっと熱くなってくる。当麻の「まだ起きてるんだったら、水飲んどけよ」という言葉に、秀はぶんぶんと首を縦に振るのだった。その様子に思わずぷっと吹き出した当麻が「待ってろ」と笑いながら水を汲みに部屋を出て行くと、秀はむっくりと起き上がった。
 寝れるはずが無いだろう、と呟く。
 今日は、当麻に会ってからこっち、ただでさえ精神が高揚していて。たぶん、自宅に帰っていたとしても興奮して寝られない状態だったろうと、自分でも思っているというのに。今、ここは当麻の自宅で。当麻がいつも着ている寝巻きを着せられて。当麻がいつも寝てる、ヤツの匂いが染み付いているベッドに放り込まれて。……風呂上りの当麻がそこにいて。あろうことか、自分を心配してのスキンシップ(額に手を乗せただけ)だと? 余計に目が覚めるわ!
 秀がぐるぐると悩む内容がそんなものだとは露とも知らない当麻は、秀にしたら無邪気としか言えない笑みを浮かべて、秀に気を配っていた。
 当麻の笑顔は、決して無邪気なわけではない。全ては、秀が落ち込んでいるらしいことを感じ取っての行動だ。
 当麻は最初から、秀がどこかおかしいと感じていた。だから、今日秀から食事に誘われたときも、本当は忙しかったが無理やり職場を出てきた。そんなそぶりを見せると逆に秀が気を使うと思ったから、待ち合わせに遅れないようにと、学生時代以来ではないかと思うほど必死に走ったりもした。はっきりと口に出すのは非常に照れるというかクサすぎると思うけれども、いつも自分を気遣ってくれる秀には、仕事も大変な時期で日々疲れているだろうが自分の前でくらいは昔のように素を出してくれよ、というようなことも伝えてみたつもりだ。秀が落ち込むのはおかしい、なんて思っちゃいない。ただ、落ち込むなら落ち込むで、疲れているならいるで、その姿をそのまま見せれば良いのに、と思うのだ。沈んでいるくせに、それをこちらに悟られないようにと無理をして。自分の前でそんな無理をするなと言いたいのだ。
 自分は、その程度なのか。秀にとっての自分は、素を見せない表面的なつきあいで済ませていい程度の人間だったのか。今更、なんでそんな他人行儀なことになっちまうんだよ。
 軽くため息をついた当麻は、水を湛えたグラスを持って、笑みを浮かべた。そうして、秀がいる寝室に向かう。
「ほら、水」
 上半身を起こしていた秀にグラスを渡すと、秀はこちらを見もしないでそれを受け取って、言った。
「ああ……すまん」
 その瞬間、当麻が盛大なため息をついた。
「だから、なんでいちいち謝るんだよ」
 そんな当麻の口調に面食らったような表情をして、秀が見上げてきた。その顔を見て、当麻は拗ねたように唇を尖らせた。
「まぁ、謝りたいって言うなら別に構わないんだが。でも、仕事相手と顔合わせてるわけじゃないんだしなあ」
 少し口ごもりながら言う当麻に、秀はハッとした。そして口をついて出た言葉が、
「ご、ごめん当麻!」
「…………」
 当麻の表情が一瞬固まって、そして少し寂しげに苦笑を浮かべたのを、秀は見逃さなかった。
「じゃなくてっ! 違うんだごめん、あの……いやだからっ!」
 秀は完全に混乱していた。というより、今日はずっと混乱し続けていたのだから今この場で少々取り乱しても致し方が無かろうと思ってやりたいところである。が、ここで一番「仕方がない」で済ませられない立場なのも秀だった。
 秀が取り乱しながら「ごめん」を繰り返してわたわたする姿を見て、当麻はやっぱり苦笑を浮かべるしかなかった。
「や、いいんだ。俺のほうこそごめん。余計なことだって判ってるのに、つい口を出してしまってさ、気を悪くしないでくれたら助かる」
 そーじゃなくてぇぇぇぇ。と、秀は当麻に縋りつくような瞳を向けた。
「お前がいっぱい心配してくれてるの、わかる。わかってるんだ。ありがとうな。俺本当に嬉しいんだ。ただ……」
 言いかけて、秀が口を噤んだ。すると当麻が、聞き返してきた。
「ただ?」
 当たり前の反応である。だが秀にしたらこれはとても痛い反応だった。答えられないのだから。しかし、答えられずにいればまた当麻に心配を掛けてしまう。それは避けたい。
「たっ、ただ……」
「うん。ただ?」
 さっきまで苦笑を浮かべていた当麻の瞳は、優しく細められて、秀の言葉を待ってくれていた。
「…………人生って、上手くいかないもんなんだなぁ、って……」
 苦し紛れの秀の言葉は、しかし妙な現実感と重みを含んでおり、当麻の心を響かせたようだ。
「秀、お前……そんなに仕事、大変なのか?」
 仕事?
 秀は首を傾げたが、当麻は黙り込んでいる秀を見て、やはりそういうことかとますます間違った確信を得ていた。
「さっき風呂でも、やべーやべーって言ってたよな」
 なんだと、アレを聞いていたのか! と秀は思うが、声が出ない。驚いてただただ当麻を凝視していたら、当麻はばつが悪そうな顔になった。
「あっ、盗み聞きしようとしたんじゃないぞ。ただ、風呂場で倒れちゃいないかと思って様子を伺ってたら、お前ずーっと『やべー、やべー』って言ってるからさ。そこまでマズイ状況を抱えてるのかと、お前の様子が今日ずっとおかしかったのも当然なのかと思うのに、お前、俺の前に出てきたら、大丈夫だ大丈夫だって気丈に振舞おうとして無理するし……」
 黙りこんで動かなくなった秀を前にして、当麻は慌てて付け加える。
「ああ、だから、これでお前がリラックスできてるならそれでいいんだ。俺の前でまで無理するのかって思ったけど、お前自身がそれがいいなら、何の問題も無い。それこそ俺がどうこう言うことじゃないっていうか、だから……えっと、すまん、なんか俺もまだ酒が抜けてないみたいだ」
 当麻は、自分がまた不必要なことを口走っていると自覚して、言葉を終わらせた。もともと、こういうことをごちゃごちゃと言うのは自分の性に合わないのだ。なのに、何故こんなことをここまで気にして口走ってしまうのかというと。
 酒のせいだ。
 と思うことにした。
 それ以外考えられないよな。うん。ああ、俺も歳とったなぁ、酒飲んでくどくなる年寄りって嫌だよなぁ、気をつけよう。
 なんてことを思いながら、当麻はまだ固まっている秀にひらひらと手を振った。
「今日はもう、寝よう。おやすみ」
 そして、秀のいるベッドの足元にあった毛布を手にとって、寝室を出て行こうとする。そんな当麻に、秀がようやく声を掛けた。
「って、当麻、お前どこで寝るんだ?」
 ん?と振り向いた当麻は、何気なく笑った。
「リビング」
「っていうか、なんでだよ、俺がそっち行くよ」
 そういえば当麻に言われるままに従ってきたが、これは本来逆ではなかろうか。ということにようやく思い至った秀が申し出たが、当麻は肩を竦めるだけで耳を貸さない。
「俺の部屋に泊まって固い床で寝て身体痛くなった、とかそういうのはパス。自分で言うのもなんだが、そのベッドはかなり良い品物なんだ。自慢の逸品なんだ。俺はそれを、お前に自慢したいの。だから、今日はお前はベッドで寝なさい。そして俺のベッドがいかに素晴らしい品なのかを実感しなさい」
 なんだその理屈は。つい騙されそうになるじゃないか。と秀が思うのは、以前当麻が、広告で格安になっていたベッドを買うことができた、と『自慢』していたからに他ならない。語るに堕ちるとはこのことだ。肝心なところでこういうボロを出すところがまた可愛いのだけど。……って、あああだからー!
 相変わらず頭の中であれやこれやと混乱をきたしつつも、秀は今にも寝室を出て行こうとする当麻を呼び止めていた。
「じゃあ、一緒にここで寝ればいいじゃねぇか」
 なんだこの台詞は。と、秀が自分で突っ込んでいる間に、当麻の返事が速攻で飛び出す。
「嫌だ。狭いじゃないか」
 瞬時に玉砕! と思いつつ、秀は引き下がれない。
「だってリビングって、風邪ひくだろうが」
「暖房あるから結構平気なんだ」
「じゃあ俺がそっちで寝るよ」
「ダメだって。敷き布がないんだ」
「家主をそんなとこに追い出して自分だけベッドって、俺が嫌なの!」
「客をそんなとこに寝かせて自分だけベッドって、俺が嫌なの!」
 ったく、ああ言えばこう言うとこは全く変わってねぇんだから……と秀が文句を言うと、当麻は勝ち誇ったと言いたげにニヤっと笑って、「おやすみ」なんて言ってくる。秀はとうとう、言ってしまった。
「待てよ、当麻」
「なんだよ、まだ何かあるのか?」
「だから、お前ここで寝ろって」
「だからー、」
 しつこいな、と当麻の表情が言っているが、秀は構わず口に出した。
「一緒に寝たいんだよ」
「…………」
「お前と」
「……狭いからやだって」
「我慢しろよ」
「えー」
「なんか、今ひとりになるのは嫌なんだ」
 秀が心の中で、自分の台詞に対してどのようなツッコミを入れまくっていたかは、伏せておこう。とりあえず、秀の頭の中はものすごいことになっていたのは間違いない。そして、その混乱が過ぎたおかげで、逆に秀の顔が無表情になったことは、良かったのか悪かったのか。
「……ったく、しょーがねぇなぁ」
 秀は、当麻のそんな台詞を引き出すことに成功していた。



 当たり前だが、こんな状況で秀が眠れるわけが無い。今、秀と当麻は、きゅっと密着してひとつのベッドに収まっていた。
 そして当麻もまた、狭いから嫌だと言っていた言葉は本当だったようで、少々眠りにくくあるようだった。そんな当麻の様子を見ていると、悪いことしたな、と今更ながらに秀は思うのだが、謝ることは今回は意識して避けた。
「やっぱ、狭くて寝れねぇ?」
 シングルベッドに大の男二人、普通に考えれば(いや考えるまでもなく)寝苦しくて当たり前だ。しかし当麻は答えた。
「いや、大丈夫……」
 眠ってないのが大丈夫じゃない証拠だろう。と思うが、秀はその当麻の言葉が嬉しかった。こいつは一貫してこちらが気を使わないように考えてくれている。正直、そこまでしてくれなくてもいいのにとも思うが、だいたい、普段の当麻は、ここまでする男ではないのだ。今回のように、相手の様子が普段と違うときに、それにあわせた自分なりの行動をとる。
 だからこそ。
 コレは、誤解しても仕方が無くは無いだろうか、と秀はぼんやりと考えた。そして、誤解してはいけないのだろうか、とも考えた。こんなことを妙に冷静に考えている自分は、もうそろそろ限界っぽいんだなということも、秀は妙に冷静に理解していたのだ。
「当麻、今日はありがとうな」
 そう言って、秀がすぐ横にいる当麻に目をやると、当麻の横顔が嬉しそうに笑ったのが見えた。その横顔に、秀は頭の中で「あ。」と思ったのだ。
「こっちこそ、ありがとう」
 嬉しそうにそんなことを言う当麻に、秀は問い返していた。
「何が?」
「え?」
「何が『ありがとう』?」
「えっ……とー……」
 当麻が僅かに頭をずらして、秀のほうを向いた。至近距離で目と目が合うと、当麻はくすぐったそうに笑みを零した。
「今日、お前に会えて嬉しかったから」
 秀は、頭の中で呟いた。「もう、限界」と。



      
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