侍騎兵 秀当
      



03

 腹を満たして店を出た二人は、ゆっくりと駅までの道のりを歩いていた。
 駅について別れてしまえば、また暫く顔をあわせることもないんだろう、なんて思う秀の歩調は、自然とトボトボとしたものになっていく。しかし、それにあわせてゆっくりと歩いてくれる当麻は、この歩調の遅さをどう感じているのだろうか、おかしく思われていないだろうか、なんて、そんなことが気になる秀だった。そんな秀の心配をよそに、当麻は軽い口調で話をしていた。
「あー、なあ秀、お前、結婚とかしないの?」
「はっ?」
 思わず素っ頓狂な声を発してしまった秀を、当麻が一瞬不審な目つきで眺めた。
「な、なんだよ突然」
 何か口に出さねばと慌てて言うと、当麻は周囲をぐるりと見回して見せた。見てみると、ちらほらと若い男女が幸せオーラを発しながら楽しそうに歩いていた。
「若いな……」
 秀の思わず口をついて出た言葉に、当麻が苦笑を浮かべた。
「俺らってさ、とっくに所帯持っててもおかしくない歳になっちまってるんだよなあって、たまーに実感する」
「へ、へぇ……」
「秀は早くに結婚するんじゃないかと思ってたんだがな。どうなんだよ、彼女がいるんなら、そろそろ一緒になってやったほうが……」
「いねえよ、そんな相手」
 当麻の言葉を遮るつもりは無かったのだが、結果的にそうなってしまったことに、秀は心中で舌打ちをした。
「へぇ、そうなのか?」
 当麻のこの返事は少し興味深そうな響きを持っていて、幸いにも彼の気分を害さずに済んだようで、その点では秀はホッとした。しかし。
 なんだよこの話の流れは?
 なんて思う秀は、急に腹の底が落ちつかないような気分を感じながら、ことさら自然な雰囲気を意識して笑った。
「当麻はどうなんだ。彼女とか……」
 妙に声が上ずったような気がして、秀は途中で言葉を止めていた。当麻はそんな秀を眺めて少し首を傾げたが、ニッと笑って前を向いた。
「俺はダメだな。なんか、そういう感情が既に枯れてるみたいだ」
「枯れてる?」
 当麻の突拍子の無い単語の選択に、秀が首を捻る。
「そう、枯れてる。ああいうの見ても、自分はいいやめんどくさいし、とか思ってるもんな。終わってるよな、彼女作る以前の問題だ」
 言いながら、当麻はまた若い男女のカップルを眺めて、妙に爽やかに笑った。ついでに「若いよなー、あんなエネルギー、俺、もう無いわ」なんて呟いている。
「いやいやいや、当麻お前、いまどき七十のジイサンだって恋愛する時代だぜぇ? 枯れるって、お前そりゃないだろう、早いにもほどがなくね?」
 ていうか俺、お前に口説かれてるんじゃないかなんて思わず思っちまうほどだっつーのに、お前アレ全部素か、素でやってんのか、ってかまさか俺以外の人間にもあんな感じなんじゃねぇだろうな、いやそんな気がしてきた。って待てよ当麻、どんだけ天然なんだお前!
 秀は、間違っても口には出せないことながら、心の中で激しく当麻に突っ込みを入れていたのだが、当の当麻はのんきな笑い声を上げていた。
「やっぱり、そうなんだろうなぁ。でも、別にドキドキするような対象もいないしさー」
 秀は、いるかいないかも判らないのだが、だから全く見知らぬ相手ではあるが、当麻に気がある女の子に対して同情の念を禁じえなかった。
「当麻、お前……。あ、でもお前だったらさ、言い寄ってくる女の子くらいいるんじゃねぇの?」
 何を言い出すんだ俺は! との思いもあったが、秀は何か不憫な気がして仕方が無かったのだ。だが、この質問に対しての当麻の返事も、枯れたものだった。
「面倒なんだよな、そういうの。好みだとか好みじゃないとかじゃなくて、言い寄られた瞬間に魅力が半減するっていうか、興味がなくなるっていうか」
「……ご、合コンとかしてさ、自分から好みの子を探してみるとか」
「そういうことにエネルギーを使おうかと考えるだけで、もう面倒になってくる」
「お前、それは……枯れてるな。寂しくないのか」
 ことごとく恋愛に対してやる気の無い回答をしてくる当麻に、秀はがっくりと肩を落とした。俺、男で良かった。そう思う秀だった。
 そんな秀の反応に、当麻は苦笑を浮かべた。そしてまた周囲をチラッと見て言った。
「改めて世間の若者を目にすると、楽しそうでさ、ちょっと羨ましいような気がしないでもないんだ」
「え?」
 なんだよ、だったらちょっとは……と思って顔を上げた秀に、当麻はちょっと首を傾げて見せながら笑った。
「でも、今のままでも、寂しくはないし」
 無邪気とも思える当麻の笑顔に、秀は唇を尖らせて見せた。少し腹が立ってきたのだ。
「なんでだよ。だいたいお前は、俺が言わなきゃ連絡も寄越さねぇしさ、そんなにひとりがいいのかよ」
 秀が言うと、当麻は少し驚いたように目を丸くして秀を見た。
「ああ……いや、そういう、わけじゃなくて、っていうか……」
 困ったように言いかけた当麻の言葉を、秀が遮る。
「そんなことを言うお前は実際寂しくないのだろうが、言われた俺は何だかものすごく寂しいんだ。そんなことを言うなよ。ずっとひとりでいて連絡の一つも寄越さずに仕事ばっかして寂しく感じないとか、なんだよ、お前それ……よせよ」
「秀……」
 当麻が零した声音を聞いて、秀がはっと我に帰った。自分が何を言ったのか気がついて、「うわ、やっちまった!」なんてちょっと後悔する。おかしなことは言っていないはずだった。ただ今の秀は、自分の気持ちを扱いきれずに混乱しているということは自覚しており、どこまでが普通でどこからがヤバいのかというボーダーラインを適切に引ける自信を失っていたのだ。幸いだったのは、自分の気持ちを混乱したまま深く突っ込んで伝えるような失態を犯さなかったことだと、秀は自分を慰めた。
 とりあえず秀は、自分の言葉をフォローしておくことにした。
「っていうか、ごめん。なんか、お前のことなのに余計なことを言ったかもしれない」
 すると当麻が、視線を少し落としている秀の視界に、腰を折ってまでわざわざ入ってきた。そして、そんな思わぬ当麻の行動に「うぇっ?」なんて奇妙な声を上げた秀に、目を細めて笑って見せた。
「ごめん、違うんだ。ひとりがいいとかじゃなくて……人恋しさを感じるか感じないかって頃になると、いつも何故か、お前がちょっかい出してくるから。だから、寂しがる必要が無いんだよ」

 ざっぱーん!(以下略)

「だから俺、実はすごく秀に助けてもらってるんだぜ。先月のアレに限らず、いつも」
 自分の顔を覗き込みながらそんなことを言う当麻に、秀はクラクラと眩暈を覚えながら、それでも必死に声を絞り出した。
「なっ、なんだよ、じゃあ当麻が恋愛できないのは、俺のせいかよっ!」
 すると当麻はきょとんとして、「ふむ……」と顎に指をかけた。そしてまたニッコリ笑ったと思うと、
「そうじゃないだろ。でも、まあ、彼女なんて別に要らないかと思う要因のひとつではあるかもなぁ」

 ざっぱーん!(以下略)

「…………」
 神妙な表情で黙り込んだ秀を見て、当麻は少し焦ったように慌てて言った。
「あ、いや、冗談だって。だからそんな顔するなよ」
 なんだ、冗談か。なんて思う余裕は、今の秀には無かった。自分が当麻の『彼女なんて要らないと思う要因』であるという現実(当麻は冗談だと言ったのだが、その言葉は秀の頭に残っていないのだ)、こんなことを言われて、秀としてはもう落ち着いてなどいられない。秀は、今完全に、戻れないところまで堕ちた自分を自覚した。
 待て、マズいって。違うだろう、常識を考えろ。
 そんな言葉を頭の中で必死に思い浮かべたりするのだが、何度も大波に攫われて沈んで溺れて、もう浮き上がれそうにない。
 秀がこんな具合で黙り込んでしまったので、一方の当麻は少々困ってしまっていた。今の話の何がこんなに秀の心に引っかかりを作ってしまったのだろう、と考えてはみるがイマイチよく判らない。この、他人の心の機微が理解しづらいところが自分の悪いところなのだ、と自嘲しながら、当麻は気を取り直すように笑顔を見せた。
「俺の話よりもさ。お前はどうなんだよ、秀。彼女いないとか言ってたけど、だったらそれこそ俺に構ってばかりじゃダメだろ」
 秀が、ピクリと反応した。それを見て、当麻は少しほっとしたのだが、秀が何を考えているのか知らないからホッとできるってなものなのだ。その当の秀は、唇を少し湿らせてから、ゆっくりと口を開いたのだった。
「彼女はいないけど、俺は、全く枯れてねぇよ?」
「そうなのか。それはいいな」
 当麻の返事は、まあ当然だが他人事である。秀は苦笑を抑えられないまま、当麻の笑顔を見返した。
「まあ、流石に枯れっちまいそうになることもあるんだけどな。でも、こうやってっとさ、やっぱダメだ、枯れてられねぇみたいだわ」
 当麻は、よくわからない、といった風に首を傾げた。
 当たり前だ。こんなこと、簡単に理解なんてされてたまるもんか。と秀は思いつつ、その首を傾げる当麻の仕草にまたほんわかとしてしまう自分に、苦笑するのだった。
「今日は特に……キツいわ。いっそ、枯れてしまえればいいと思うよ。俺はお前が羨ましい」
 急に激しくナーバス全開になった、普段の秀とは違うその様子に、当麻が心配そうな顔を見せた。
「どうしたんだ。なあ、悩み事があるんだったら、相談に乗るぜ」
 当麻の気遣いに、秀は「サンキュ」と呟いて笑う。
「お前らしくないんだよ、そんなの」
 当麻のこんな台詞に、しかし秀は笑って見せることしかできない。彼を困らせたいわけじゃない。けれど今の秀はもう、笑顔を見せて誤魔化すだけで、いっぱいいっぱいなのだ。しかしそうすると、ますます当麻の顔が顰められる。
 これはどうするべきかな、なんて秀が思っていると、不意に当麻が、すっと身体を寄せてきた。瞬間、心臓がフワリと浮いたような感覚が走った秀の耳元に、当麻の声が流れ込んできた。
「もう一軒、行こうか」
 秀がここで、頷かずにいられるわけが無かった。



 夜はすっかり更けていた。
 まだまだひんやりと冷え込む早春の夜風は、しかし今の秀にとってはほてった心身を気持ちよく冷やしてくれる、心地よいものでもあった。
「おい、大丈夫か?」
 心地良い夜風に吹かれて届くのは、心地良い声。
「あー……だいじょぶ。うん」
「って、おい、危なっ!」
 ふわふわとした足取りで一歩を踏み出したと思ったら、その心地良い声が自分のすぐ耳元で響いたことに、秀は心臓を跳ねさせた。同時に、ぐいっと身体が締め付けられる感覚がした。
 咄嗟のことで声を失った秀は、突然自分を抱きしめてきた当麻を不思議そうに見上げた。その視線に、当麻は苦笑を返した。
「勝手にふらふら歩いて行くな。ちゃんと俺につかまっとけって。」
 笑って言った彼にボケーッと見とれた瞬間、秀の背後すれすれを大型トラックが走り抜けていった。あれ? と背後を振り返ると、今まで気がつかなかったが、そこはひっきりなしに車が往来する広い道路になっていた。
「あー……? ごめんー」
 語尾を間延びさせて謝る秀に、当麻の苦笑が止まらない。
「いいって。とりあえず、タクシー拾うぞ。いいな?」
 そう言って、当麻が通りに顔を向けたのだが、秀はその当麻の襟元をぎゅっと握って当麻の身体をこちらに向かせた。
「秀?」
 当麻の声が、不審そうな色になる。それでも、秀は当麻の襟を離さなかった。
「タクシーはダメー」
「え、でも」
 当麻の言葉を遮るのに秀が取った行動は、彼のネクタイをぎゅーっと絞ることだった。
「ちょ、しゅうっ、ぐえっ」
 ここでようやく少し手を緩めた秀は、上目遣いで当麻を見上げて言った。
「やだー、帰りたくないー」
「…………はあ?」
 思いもよらない秀の台詞に、当麻は本気で耳を疑っていた。いい年こいて帰宅拒否かい! ってか、やだーってお前誰よ。ってなもんだ。
「あのなあ、どこの中坊だよ、お前はぁ」
 あきれ返った当麻だったが、その声を聞いた秀は、自分が何を口走ったのかを自覚したらしい。少しの間、あーうーなどと唸ってから、また口を開いた。
「給料前なんだよぅ。こっから家までのタクシー代なんてねぇしー。電車じゃねぇと、俺は帰れないのーっ」
 なかなかの言い訳だったと思う。流石の当麻も、これには反論できなかった。しかし。
「……でもなあ、もう終電行っちまったぞ……」
 参ったな、と当麻がため息をついたのを見た秀は、ちょっと考えてから、あっけらかんとした笑顔を見せて、くるりと踵を返した。
「うん、歩いて帰るわ。じゃあ、またなー」
「こらこらこら、まてまてまてっ!」
 とぼりと歩き出した秀の身体を慌てて引き寄せて、当麻は盛大にため息をついた。
「わかった、今日のところは、俺んちに来なさい」
 そんなことを言う当麻を、秀が見上げた。頭が、急に現実に引き戻されてクリアになっていく感覚を、秀ははっきりと感じていた。
「そりゃダメだ。いいよ、ちゃんと帰れるから」
 秀は語尾も延ばさずにはっきりとそう言ったのだが、当麻がそれを許さなかった。
「何がダメなんだよ。だいたい、今のお前が、ちゃんと帰れるわけないだろうが」
「帰れるよー!」
「ばーか、お前あのまま歩いて行ってたら、千葉についてたぞ」
「へ?」
「お前、自分が全くの逆方向に歩こうとしてたことにすら気づいてないんだろう? だから、バカなことを言ってないで俺の言うことを聞け」
 そんな失態を犯していたのか、と愕然とした秀は、いいからこれ以上面倒かけさせるんじゃない、なんて、まるで子供を叱る親か先生のような口調になった当麻に従わざるを得なかった。



 店を出た時には、先ほどいくつか失態を犯したことからもわかるように、秀もそこそこ気持ちよく酔っ払っていたのだが、その後当麻のマンションに到着する頃には、秀の酔いは実はすっかり覚めてしまっていた。こんな酔っ払いの自分の行いを、呆れながらも笑って許してくれる当麻の姿を見ているだけならば、ここまで覚めたりはしなかっただろう。というか、そんな顔を見せられた日には、余計にふわふわと気持ちよくなっていたかもしれない。だけど。
「ちょっと散らかったままだから、あんまり見るなよ」
 そんな、お前は一体どこの可愛い女だと思うような台詞を秀に投げつけてくる当麻が、まさに暮らしているその場所に、とっくに終電もなくなったような時刻になってから上がり込んでいる自分、というのを自覚してしまうと、秀はふわふわと酔ってなどいられなかったのだ。
 今、秀の中では「当麻さん、迷惑かけてゴメンナサイ」という気持ちと、「こんな簡単にこんな時間に他人を自宅に引き込んでんじゃねぇよ」という気持ちがせめぎあっていた。前者はともかく、後者は当麻本人の耳に入れでもした日には、また「はあ?」と言われること間違い無しだ。他人と言っても、当麻にしたら『秀だから』親切にしてくれるのであって、その秀本人がそのようなことを考えること自体、どこかズレているような気もする。が、それもわかっていながら、秀は納得しかねる気分を捨てることができなかった。
「突っ立ってないで、適当に座れよ。……あ、ハンガー、そこに掛かってるの勝手に使っていいから」
「……ああ」
 少々不機嫌な響きになった秀の声を、当麻は敏感に感じ取ったらしい。
「秀?」
 不審げに問いかけてきたので、秀は小さく深呼吸をしてから、へらっと笑って当麻を振り返った。
「こんな簡単に酔っ払いを家に連れ込んではいけませんよー、危ないですよ羽柴くんー」
 一瞬面食らったように目をぱちくりとさせた当麻は、ぷっと小さく吹き出しておかしそうに笑った。
「ばぁか。お前は見知らぬ性質の悪い酔っ払いじゃあないだろう」
 言いながら、当麻は酔い覚ましのコーヒーを淹れてくれようとする手を止めない。そんな行動にすらいじらしさを感じたくなる秀は、そんな自分の思考を振り払うようにゴホンと咳払いをしてから、小さなローテーブルの前に腰を下ろした。
「性質の悪い酔っ払いねぇ。わかんねぇぜー?」
 軽い口調で零してみると、そんな秀に目を向けた当麻は、小さく首を傾げて見せた。だからー、と思う秀は、くくっと苦笑が漏れるのを止められない。そうしながら、参ったなーとため息をつく秀だった。
 そうするうちに、当麻がコーヒーを運んできてくれた。秀の前にマグカップを置いて、秀の前に腰を下ろす。そうして、秀がコーヒーを一口含むのを確認してから、当麻は静かに口を開いた。
「言いたくないなら、別にいい。無理やり聞きだすつもりは無いんだ。でも、もし俺と一緒のとき以外でもこんな風になるんだったら、先に俺に吐き出しとけよ」
 突然神妙に言い出した当麻を、秀はきょとんとして見つめた。すると当麻は、少し照れたように頬を膨らませて続けた。
「だから、お前の悩み事だよ」
「……俺の?」
 不思議そうな表情を見せた秀の顔を、当麻は怪訝そうに覗き込んだ。
「なんだよ、何か悩んでるんだろう?」
 言われて、そして当麻にぐいっと顔を近づけられて、秀の眼が泳いだ。
「あ、ああ……えっと……」
 その秀の表情を困惑したものだと受け取った当麻は(困惑という意味では間違っていないのだが)、少し焦って口を開いた。
「あ、誰か他に相談できるヤツがいるなら、いいんだ。別に詮索しようってわけじゃない。ただ、今日みたいな妙な酔い方するお前って珍しかったからさ。でも、こういうのは俺の前でだけだっていうなら、このままでぜんぜん構わないし……」
 当麻の口調が、だんだん口ごもっていく。秀に穴が空くほどに見つめられて、当麻はばつが悪そうにため息をついた。
「ごめん。余計なことを言ってたら、聞き流しておいてくれ」
 それだけ言うと、当麻は気を取り直したように、口調を明るく変えた。
「風呂、入れるか? もう沸くけど」
「……あ、ああ、うん……」
 はっきりしない生返事を返してきた秀を、首を傾げつつ眺めた当麻は、秀がもう疲れているのかと思った。
「じゃあ、もう寝るか? ベッド使えばいいから。ええと、ちょっと待ってろ、すぐ準備するから」
 そう言って立ち上がった当麻を目で追いかけながら、秀は突然に自分が酔っ払いだったことを思い出し、自分の腕の匂いをくんくんと嗅いだ。
「いや、風呂いただくわ」
 そう言って、急いで「よっこいせ」なんて呟きながら立ち上がった。つもりだったのだが、足が付いてこなかった。頭は確かに覚めているが肉体のアルコールまで抜けたわけではなかったらしい、と秀は考え、同時に「あー、これ派手にこけちまいそうだな」なんてことも考えていた。
 しかし、秀が派手にこけて当麻のご近所迷惑になることはなかった。その前に、当麻の腕が、秀を身体を支えたのだ。
「あっぶねー、大丈夫かよ。やっぱり寝たほうがいいみたいだな。今の秀なら、風呂で溺れ死ぬことができる」
 そう言って、当麻はくすくすと笑った。
 秀は、自分を支えてくれた当麻の腕をぎゅっと掴みながら、必死で立ち上がった。必死にならなければならないほどに、頭がクラクラしていた。
 あんなこと言ったりこんなこと言ったりこんなに密着したり。とにかく、何でもいいからひとりにさせて落ち着かせてくれ!……という思いで頭がいっぱいになっていた。
「や、大丈夫。俺たぶんすげぇ酒臭いし。お前の布団汚しちまうの、ヤだし」
 ぼそぼそと早口で喋った秀の声に耳を傾けた当麻は、まだくすくすと笑っている。
「何を言うかと思えば。バカだな、お前はそんな余計な気遣いはせんでいいんだ」
 しかし秀は、頑なだった。
「大丈夫。大丈夫。風呂入る」
「秀ー?」
「ああ、大丈夫」
 大丈夫じゃない人間に限って、大丈夫という法則。
 そんなことを頭に思い浮かべながらも、どうにも言うことを聞かなさそうな秀を、結局当麻は風呂場まで連れて行った。
「無理はするなよ。何かあったらすぐ呼べよ?」
 無駄のような気もするがとりあえず念押しをすると、秀はそんな当麻にひらひらと手を振って、脱衣所の扉をピシャリと閉めたのだった。閉じられた扉の前で、少し何かを考えていた当麻だったが、やがて不意に軽く頷いたかと思うとパタパタと忙しなく寝室に駆け込んだ。その少し後、秀に着せるための寝巻きを持って、心配そうに扉の前で待機する当麻の姿があったのだが、秀がそれを知るはずも無い。
 一方、「大丈夫、大丈夫」と連呼することによって余計に当麻の心配を煽ったとは全く気がついていない秀は、彼が脱衣所の扉の前でヤキモキしてくれていることも知らず、彼の沸かしてくれた湯の中で、ぼんやりと彼のことを考えていた。
「やべー、酔って夜中に当麻んちに来ちまった」
 小さく声に出してみると、酒臭い呼気が身体から追い出されていくような気がした。自分の酔いは、ここに来るまでにすっかり覚めたと思っていたが、さっき足が立たなかったことや、今の呼気の酒臭さなどからは、まだ充分自分は酒酔い状態であることがわかる。
「……やべーよな」
 色んな意味で、秀はまた呟いた。すると、やっぱり身体から酒が出て行くような感覚がして、同時に自分のどうにもならない想いも出て行くような錯覚を覚えて、秀は暫くの間小さな声で「やべー、やべー」と呟き続けたのだった。



      
侍騎兵 秀当