侍騎兵 秀当
      



02


 先に待ち合わせ場所に到着したのは、秀だった。といっても今回の場合は時刻を指定しての待ち合わせではなく、秀の到着時刻がこのくらいだと思うからそのくらいの時間に落ち合おう、という話だったので、思ったより早くに到着することができた秀が当麻を待つことになっても、何らおかしいことは無い。だから何も気にせず少しの間そこに立っていた秀なのだが、そろそろ時間になるなというころになって、当麻が来る前にトイレにでも行っておこうか、などと思いつき、秀はその場を離れたのだった。
 秀がそれを見たのは、用を済ませて戻ってきた時だった。
 遠目から待ち合わせ場所を眺めると、まだ当麻は着いていないようだった。それで、「ああ良かった、まだみたいだな」なんてことを思いつつその場所にゆっくり歩いて向かっている最中に、バタバタと走ってくる当麻の姿が目に飛び込んできたのだ。
 思わず、人通りの影に隠れるようにして足を止めてしまった秀だった。
 走ってきた当麻は、ぜぇぜぇと肩で息をしながらあたりをぐるりと見渡して、おもむろにほっとしたような表情になった。そのままドスンと壁に凭れたと思ったら、どうやら大きな深呼吸を数度繰り返したようだ。呼吸が整ってくるとふと気になったらしく、手で髪を撫で付けたり薄手の長いコートの裾を整えたりし始めた。
 その後、時計にチラっと目をやった当麻の姿を見た秀は、やっと我にかえったのだった。
「なんで当麻待たせたまま隠れてんだ、俺?」
 うわ最悪ー、なんて自分のことを心で罵りながら、秀は慌てて当麻の傍に駆けていった。当麻がそんな秀に気がついて、笑みを浮かべた。
「当麻、ごめん!」
 本来なら待たせなくて良かったのに待たせてしまった罪悪感から出た秀の言葉に、当麻はおかしそうに笑った。行こうか、と秀を促して歩き出しながら、「なんで謝るんだよ」なんて言ってくる。この、当麻にしたら何てこともないであろう軽い突っ込みに、秀は思いのほか焦ることになった。
「え。あ、いやぁ……」
 トイレに行っていたんだ、と言えばいいのに、このときの秀の頭にその言葉は浮かばなかった。何故か「隠れてお前のことを見てました」としか思い浮かばない。これはこれで真実なのだが、それにしても最悪だ。間違っても当麻に向かってこんなことは言えない。
「あ、あ、そうだ、お前本当に仕事大丈夫なのか? なんか、さっき電話切る瞬間スゴかったよなあ?」
 苦し紛れにやっとのことで言葉を出してみると、当麻はあちゃあ、というような表情をした。
「あー、あれ。やっぱり聞こえてしまっていたかー」
「聞こえた聞こえた。羽柴さん羽柴さんて、お前超モテモテじゃん」
「まぁなー」
 苦笑を浮かべる当麻に、秀はもう一度ゴメンと謝った。
「あの様子じゃ、自分の仕事片付けるだけじゃ済まなかったんじゃないのか? なんか、悪かったな」
 言ってから当麻に目を向けた秀は、軽く息を呑んだ。当麻が無表情で秀を見下ろしたのだ。
 当麻と秀、身長は当麻の方が少し高い。だから二人で並んでいると、秀が当麻に微妙に見下ろされる格好になる。それはいい。いつものことだ。というか、今までそんなことを気にしたことは無い。だがこのときの当麻は、その瞳を僅かに細くして秀を見た。なんというか、当麻の纏った雰囲気を秀が感じたままに言葉にすれば、気分を害した、と言いたげな?
「すまん」
 慌てて当麻から目を逸らした秀は、何が当麻の気に障ったのかと考えを巡らせた。そのつもりだった。だが、焦る心は何だ何がダメだったんだろうと繰り返すだけで、まともな思考に結びつこうとしない。
 すると、秀の隣で当麻がボソッと口を開いた。
「なんか、槍でも降ってきそうだよな」
「え、何?」
 自分の思考で混乱していた秀は、当麻の言葉をはっきりと聞き取れていなかった。だから聞き返したのだが、当麻がもう一度同じことを繰り返して言ってくれる気配は無かった。だから、秀はもう一度尋ねたのだ。
「悪い、聞いてなかった。なんだったんだ?」
 すると当麻は、半ば呆れたような表情をしながら、「しょうがないな」と笑った。
「あのな、秀。俺言ったよな? 仕事は終わらせてから行くから心配すんなって。余裕で片付くからって。仕事終わってなかったら、まだここには来てねぇよ」
「……あ、そ、うか。だよな。すまん」
 秀の返事に、当麻が軽くため息を付いた。
「秀ー?」
 当麻が、少々呆れた色が濃くなったような声で秀の名を呼ぶ。
「……何」
 秀は、彼の口からどんな言葉が出てくるのだろうかと、思わず首が竦みそうになっている自分をどこか奇妙に思う。そんな思いを抱きながら当麻の顔を見てみると、当麻は先ほどと同じように秀の顔を見下ろしているものの、その目つきは先ほどとは少し違っているようだった。まるでこちらの心を見透かそうとしているかのように、探るような目つき。に見えなくも無いと、秀は思った。そう思うと、背中に緊張が走る。
 何故か緊張し始めた秀の顔をじっと見ていた当麻だったが、やがて少し眉を上げて「まあ、いいや」と呟いた。
「えっ、なんだよ、なんなんだよ、当麻!」
 少し拍子抜け。でもすっごく気になる。そんな気持ちを抱えて当麻を追うと、秀をちらっと横目で見た当麻は。
「そうだな。いいか良く考えろ。お前が俺とメシを食いたいと言うから、俺は天才的なこの頭脳をもって華麗に余裕で仕事を片付け、お前よりも先に、余裕で待ち合わせ場所に来てやったんだ。さっきからお前、俺に謝ってばかりだけどさ、それより先に何か言うことは無いのか」
 畳み掛けてくるような勢いの当麻の言葉に、秀はきょとんとした。
 先に待ち合わせ場所に着いたのは間違いなく秀だったのだが……そうだ、当麻はそんなことは知らないのだ。『余裕で来てやった』とか言っているけど、肩で息をするほど必死に走ってきたシーンを実は秀が見ていたなんてことも、当然当麻は知らないのだ。この当麻が、あんなに髪や服装を乱してまで必死で駆けて来た、それを秀が知っていることを、当麻は知らないのだ。だから『余裕で』なんて涼しい顔で言ってくる。あんなに必死な顔してたくせに、『余裕』だって。
 いつもの秀なら、笑い飛ばすところだった。ここは、俺が何も知らないとでも思ってんのか? なんて当麻を小突いたりするところではないだろうか。だが、今はそれができなかった。彼がただ格好をつけるために言っているなら、冗談として返してよいと思う。けれど今の秀は、当麻のこの行動をそんな軽いものとして受け止めたくなかった。あの当麻が、あんなに一生懸命走ってきた姿を見てしまっているのだから。
 つまり、これって……と、秀は思った。
 ギリギリまで仕事してたから、あんなに必死に走ってきたんだよな。でも当麻は、そのことで俺が気を使わないようにしてくれているんだ。
 これは一体、何なんだ?
 この妙な気持ちは何なんだ?
 こんないじらしいことをする当麻って、何を考えているんだ?
 あれ? いじらいしいと思う俺がどこかズレてるのか?
 でも今俺、泣きそうなくらい嬉しいんですけど。
 あれ、ここ、喜んでもいいとこだよな?
 それとも突っ込まなきゃいけないところか?
 いやでもすんげぇ嬉しいんだ、どうしよう。
「なんだよ、まさか本当に何もないのか?」
 当麻が、秀からの謝罪以外の言葉を催促してくる。
「…………ありがとう」
 秀が言うと、当麻の顔に満足そうな笑みが広がった。その瞬間、何の作用か秀の呼吸が一瞬停まってしまったのだが、そんな事に気がつかない当麻は、嬉しそうな笑みを秀に向けたまま楽しそうに言葉を続けていく。
「わかれば、よろしい。別に何もしていないのに感謝されるというのも妙なものだが、まあ悪い気はしないから、今日は存分に俺に感謝するがいい」
「な、なんだよ、それ」
 しどろもどろになりつつも、なんとか秀が言葉を返すと、そのしどろもどろっぷりをどう捉えたのか、当麻は唇を尖らせた。
「なんだよってなんだよ。お前、俺に会えて嬉しくないのか?」
 なんだその台詞は! と心中で突っ込みながら、秀は半ば必死で当麻との会話を続けた。
「それはっ……嬉しいに決まってるだろ!」
 一生懸命だったのである。言った直後に背中から汗がどっと噴出した秀だったが、当麻はにやりと笑った。
「おっ、なんだどうした、素直だねぇ」
「俺は昔から素直なんだ!」
 半ば自棄な部分も滲み出てきているようだ。だがこの言葉に、当麻は思い出したように呟いた。
「ああ、確かに。昔のお前は素直だったよな」
 どことなく意味深な言葉に聞こえて、秀は当麻の顔を見上げた。
「昔は? 自慢じゃないが、俺は今も素直で正直者だぜ。それだけが取り柄なんだから」
「唯一の取り柄だって自分でわかってるなら、もっと大事にしろよ」
 思いもよらない当麻の意見に、秀は目を丸くした。その秀の顔を見て、当麻が笑う。
「何だ、その顔」
「いや……俺、そうなのかな、って」
 当麻に言われたことを少しショックに思いながら呟くと、当麻は優しい瞳で微笑んだ。
「流石にこうもオッサンになってきたら、素直ばかりじゃやっていけないじゃないか。その部分もお前はわかってて、ちゃんと使い分けてるんだと思う。なんだろうな、秀ってそういうセンスはちゃんと持ってるんだよ。普通に環境に順応していけるんだ。だから自覚はないのかもしれないけど」
 けどさ。と当麻は続けた。
「元来が、真面目に糞が付くほど正直者で素直なヤツがさ、社会の荒波の中を上手く泳いでいくには、並大抵ではない努力が必要なんじゃないかなと、最近の俺はそう思ってるわけよ。その自覚がなくてもね」
 大人社会ってやつはさ、この俺でもうんざりするシーンが多いんだから。なんて、当麻は笑いながら続ける。
「だから、たまには本来の自分に戻れる場所、みたいなの、これは誰にでも必要なんじゃないかなと、俺は常々思っていたわけなんだ。で、だとすると、秀にとってのそれは、どこなんだろうな、って」
 何をどう答えればいいのか、秀は頭の中を真っ白にしたまま、ただ当麻の言葉に耳を傾けていた。
 正直、当麻がこんなに自分のことを考えてくれているとは思わなかった。さっきのいじらしい行動といい、この親身に自分のことを思ってくれる言葉といい、確かに俺たちはお互いにかけがえの無い友だ、そうだその通りだ、だけどここまでしてもらうと嬉しいを通り越した感情っていうのかな、あれそれってなんなんだろう、いやだからもう一体コイツは何を考えてここまで俺のことを思ってくれるんだ、——なんてことを考える秀は、しかし気がついたらまた頭の中を真っ白に漂白していたりする。
 そうするうちに、不意に当麻が立ち止まった。それに倣って秀も立ち止まると、当麻は秀の顔にちらっと視線を向けてから言った。
「つまり、だな。俺としては、お前のその場所っていうのが、俺の前なんじゃないかと思っていたというか。まあ、そうだったらいいなあと、思うわけだ」

 ざっぱーん!

 秀の心のうちで、巨大な荒波が尋常ではないほどの衝撃を持って飛沫を飛び散らせたとしても、誰も責めないでやってほしいと思う。
 カチンと固まった秀に気づいているのかいないのか、当麻は立ち止まった目の前にある店を指差して、秀にあっけらかんとした笑みを向けた。
「ここでいいか? 結構美味くて安いんだ」
 その言葉を理解したのかどうなのか、秀が微かに頷いたっぽい動きをしたのを確認すると、当麻はさっさとその居酒屋と思われる店の中に入って行ってしまったのだった。



 その店は、当麻が勧めるだけあって、味もボリュームも満足できた。雰囲気も値段も良心的なためか、客層は若すぎるわけでもなく、かといって堅苦しくもない年代の会社員が多いようだった。
 そんな店の隅に陣取って、ようやく食べ物を胃袋に入れはじめると、秀の精神状態も幾分か持ち直していくようだった。
「ああ、俺腹減ってたんだなぁ……」
 なんて秀がしみじみ呟くと、当麻は一瞬きょとんとした顔を見せ、その直後、やっぱり面白そうに笑って、焼酎の入ったグラスを傾けた。
「秀に腹が減ってないときなんてあるのかよ」
「あるに決まってんだろ、俺だってなあ、腹いっぱい食った直後は腹へってねぇよ」
「そりゃそうだ」
 くっくっく、と笑う当麻の顔を、秀は落ち着かない気持ちで眺めた。
 当麻は、何の気負いも無いように見えた。気負いが無いどころか、非常にリラックスして秀との会話を楽しんでいるようで、彼の表情からはさっきから笑みが絶えることが無い。
 しかし、たとえ腹に物を入れて精神状態が持ち直しつつあるといっても、もはや今の秀からしたら、当麻の笑顔や仕草のひとつひとつまでがこの上なく輝いて見えて眩しくてしかたがないのだ。ついさっき店の前で受けたプロポーズまがいの口説き文句(にしか聞こえなかったのだが、流石の秀もそれは独り善がりだと思うように頑張っている)は何度も秀の脳裏を掠めてくれて、そのたびに気が遠くなりそうな感覚に襲われる秀は、自分の通常の顔を維持することに神経のほとんどを使わざるを得なかった。少しでも気を抜けば、あっというまに当麻の笑みに釣られて、頬が無様に緩んでしまうのだ。
 そんな努力を知ってか知らずか(知っていたら恐ろしいと秀は思うのだが)、当麻はやはり楽しそうに微笑みながら、秀を見るのだった。
「そういや今日は埠頭にいたんだよな? 何やってたんだ、そんなとこで」
「何って、仕事だよ」
「そりゃわかってるって。今何やってるんだって聞いてるんだ。お前、やることコロコロ変わるからな」
 当麻の言葉に、秀は苦笑を浮かべた。
 別に、秀が転職を繰り返しているわけではない。
 秀は、親族の経営する中華系の企業に所属している。彼の実家の中華料理屋は、その企業の傘下だったりする。しかし秀は、実家の店を継ぐのではなく、それを傘下に治める親会社を将来引っ張っていく人間の一人になるために修行中の身であった。今は、企業内で色々な業務に就いて、あらゆる仕事を経験して回っているのだ。
「今は貿易部」
「へぇ、それで。実務までやってんのか? ……大変だろう、今は特に」
 当麻の労わりの言葉に、秀は少し肩を竦めて笑った。
「まあ、史上最悪な感じだな。ただ俺、またそろそろ部署変わりそうなんだ」
 秀が言うと、えー、と当麻が唸った。
「なんだ、とうとう役員か?」
「まあ」
「え、マジかよ」
「一応、そう言われてる。けど、俺その前に営業やっときたくてさー。上は前やったから必要ないって言うんだけど、しつこく交渉してるとこ」
 秀が言うと、当麻はため息をついた。
「お前らしいといえばそうだけど。貿易も厳しいけど、お前んとこでこの時期、営業も大したもんだと思うぜ? 何もわざわざそんな苦労に飛び込まなくても」
 当麻の言葉に、秀は「うっ」と唸りつつ、ビジネスコンサルティングという仕事に就いている当麻に、こそっと聞いてみる。彼は以前、アジア諸国の市場調査のために、頻繁に出張を繰り返していた。その前は欧州だった。彼らの行う市場調査の結果には、秀の企業も大きく左右される。
「当麻は今、主に何やってるんだよ。国内? 海外?」
「俺はただの中間管理職。上から下へ、下から上への連絡係」
 どうやら秀の質問をかわそうとしているようだ。秀にしてもそれは想定内だ。当麻には守秘義務がある。だが秀は、少しだけ食い下がってみることにした。
「やっぱ営業も大変かなあ。この先も冬は長引きそうかな?」
 なんだか占い師にでも相談しているかのような気分になった秀だったが、当麻からの答えもやはりそんなようなものだった。
「……やりようによってはそのうち光明も見えてくるかもしれんが、一朝一夕には行きにくいだろうな」
 まるでおみくじに書いてある文を読んだような答えだったが、秀にしたらそれで充分だった。
「そっか。じゃあ余計に、一旦は営業にまわしてもらわないと。……その前に、今の部署ももうちょっと道をつけてからじゃねぇとな……」
 頭の中で色々考え始めたらしい秀を眺めて、当麻は「しょうがないヤツだな」と笑った。その笑みを目の端で捕らえた秀は、唇を尖らせた。
「あっ、今笑っただろう。コイツほんとどうしようもねぇバカだなーとか思ったんだろっ!」
「違うよ、バカだなとは思ったけど——」
「ほぉら見ろ。いいんだ、どうせ俺はバカです、わかってます。無駄を省いて効率よく生きていくなんてこと、逆立ちしてもできない性質なんだ」
「だから、そのバカなところが秀のいいところなんじゃないか。俺はそれができないから、お前のことがちょっと羨ましいんだ」
 なんだか褒められたのかけなされたのか、よく判らない。でも、悪い気はしない秀だった。というより、何故か照れくさい気分になってしまうのは、バカだバカだと言う当麻が、やっぱり優しい瞳で笑いかけてくれるからなんだろうか。
「ば、バカが羨ましいなんて言うお前って、かなりの変人なんじゃないか?」
 言ってみると、当麻は驚いたように瞳を見開いた直後に、やっぱり楽しそうに笑うのだった。そんな当麻に少し頬を膨らませて見せた秀は、一方では「コイツ、このやろう……」と心の中で繰り返しながら、気を抜いてうっかりニヤケ顔を晒してしまわないように、神経を張り詰めなおすのだった。



      
侍騎兵 秀当