たからもの:067


 
 工藤マサト 様


「おはよう」
 軽い二日酔い状態の頭を振りながら遼が階段を降りてきたのは朝の十時半ごろ。ちょうどキッチンで皿を洗いかごに並べていた伸は、遼の姿を認めるとエプロンで手を拭きつつ笑って声をかけた。
「おはよう遼。寝坊だね」
「飲みすぎた。あいつら強すぎるよ、付き合ってられない」
 遼の言うのは、仕事の都合で早々に帰らなくてはならなかった秀と、これまた仕事のために空港へ行かなくてはならないナスティを車で送っていった征士のことだ。ダイニングの椅子に座り込んで両手をお手あげの形にした遼に味噌汁の椀を手渡し、伸はゆうべの騒ぎを思い浮かべて小さく吹き出した。
「そりゃそうだ、あの二人の酒の強さって異常だもの」
「ザルと枠」
「普通じゃないよ。遼、ごはんは?」
「入らない。これで充分」
「そう?」
「せっかく作ってくれたのにすまないな」
 大根の味噌汁を前に安堵の息をついた遼は詫びるように伸の顔を見た。伸は「いいよ」とわずかに肩をすくめてみせる。
「昨日の主役がしっかり食べてってくれたしね」
「秀、あれだけ飲んでも朝飯食べられるのか?」
 軽くうめいてから、遼は椀の縁に口をつけた。まだ冷めず熱いままの味噌汁がじわりと喉を通る感触に、さっきとはまた別種の溜息がもれた。
 どうして、深酒が過ぎた朝の味噌汁というのはいつもこう旨いのだろう。
 箸を動かして具の大根をかじりつつ、遼は部屋を見回した。
 秀の誕生日パーティーでゆうべしっちゃかめっちゃかに散らかしたダイニングはきれいに片付けられている。どこへ飛ばしたかわからないシャンパンの栓もクラッカーの紙吹雪も床に落ちてはいない。誰が後始末をしたのだろうと思い、それをしそうな人物の名をためしに挙げてみれば。
「純は?」
「ここの掃除してさっき帰ってったよ。これから彼女と待ち合わせして別荘連れていくんだってさ」
「軽井沢の?やるな純」
「大学の友達も一緒らしいけどね」
 可哀想に、と言いつつ伸の口調には面白がるような響きがあった。それに苦笑しつつ、遼はまた一口味噌汁をすすった。
 きっと伸の中では、純はいまだに出会ったときの子供の姿でいるのだろう。その気持ちは遼にもわかる。自分も、そして昨日は秀も二五歳によわいを重ねたというのに、遼が脳裏でイメージする純は、今もスケートボードを抱えて笑っているあのころのままなのだ。
 自分たちだけが齢をとっていく道理など、あるわけがないのに。
 ぼんやりとそんなことを考え、視線を泳がせながら遼は大根を口に運んだ。そのときに、居間のソファに誰かが寝ているのに気がついた。
 肘置きからはみだした靴下の爪先。スーツとフォーマル以外はジーンズしか持っていないと言っていた、あれは―――――
「・・・・・・当麻?」
「ああ」
 遼の呟きを伸の耳がとらえた。
「七時くらいについたのかな?秀とはすれ違っただけだったけどお祝いは何とか言えたみたいだよ。それからそこでずっと寝っぱなし。上に上がる体力残ってないとか言って」
 おかわりは?と差し出された伸の手に椀を託し、へえと相槌を打ってから遼は気づいた。つまり伸はその時刻にはすでに起き出していたのだ。伸とてゆうべ飲んでいなかったわけではないのに。やはり節度ある飲み方というのは大事だと、いささか首をすくめながら遼は味噌汁のおかわりを受け取った。
「さて」
 声に目を上げると、さっきまで身につけていたエプロンが伸の胴体から消えている。遼が見上げる中、伸は腕を上げて大きく伸びをした。
「僕ちょっと出かけてくるね。昼には間に合わないと思うから、征士に電話して何か買って帰ってきてもらってくれる?買いたい本があるんだ」
「本?」
「別に帰ってからでもいいんだけどね、早く読みたくて」
 僕の分はとっておかなくていいから、という伸の台詞に遼はうなずいた。ダイニングを出て行く伸。ほどなくして階段を上り、また駆け下りる音が聞こえ、もう出るのかと思う間もなくドアからひょこりと伸が顔を見せた。
「味噌汁あと一杯分くらい残ってるから、飲むなら鍋洗っといて」
「わかった」
「夕ごはんは焼肉行こう。当麻来てるし」
「ああ」
「じゃあね。いってきます」
 玄関のドアが閉まる音が聞こえ、しばらくダイニングの中には遼の味噌汁をすする小さな音だけが響いた。ほどなくして二杯目の椀を空にすると、遼は立ち上がってキッチンに足を踏み入れた。
 椅子を立つときに「ごちそうさま」を言うのは忘れない。
 コンロにかかった鍋を覗き込むと、実際には伸の言うよりもう少しだけ多目の量が残っているようだ。勝手知ったるなんとやらでコンロの下の開きを開け、ミルクパンの次くらいに小さい片手鍋を探し出す。余った味噌汁をそれに移し、もともとの鍋は洗剤をつけて洗った。
 がたん、という音に気づいたのは、洗い終えてタオルで手を拭いていたときだ。
「・・・・・・飯、ある?」
 よれよれの声に遼が振り向くと、声の主がなにやら疲れ果てた様子でキッチンのドアにもたれかかっている。
「当麻?」
「・・・・・・一口、なんか・・・・・・ちょ、血糖値が・・・・・・」
 脈絡のない台詞に遼は顔をしかめた。血糖値?
「は?」
「ブドウ糖・・・・・・」
 ずるずる崩れ落ちる長身。それを見て、呆気にとられてそのさまを見守っていた遼はいきなり慌てだした。
 ブドウ糖!?
 と、突然言われても何のことだか一瞬思いつけない。普通に考えれば砂糖などでいいのだろうが、調味料入れから砂糖をスプーンですくって口に流し込むのはいくらなんでもおもむろすぎではないのか(梅酒作りで余った氷砂糖がどこにしまってあるのかを遼は知らなかった)。
 どうする。
「と、とりあえず・・・・・・」
 焦って目が泳ぐ。なんでもいいから何か代わりになるものをと視線ばかり動かした遼が見つけたのは、つい先刻に自分が味噌汁を移し替えた片手用の子鍋だった。




「・・・・・・・・・・・・」
 はふはふ。ずるずる。ずず。
「・・・・・・あの、熱くないか?」
「・・・・・・・・・・・・」
 横から控えめに問いかける遼に、無言でうなずく当麻。箸の動きは確実で一瞬たりと休むことがない。
 ずー。
 椀の中の味噌汁を一滴残さずすすり終えた当麻は、ようやくのことで大きな溜息をついた。
「ごちそうさん・・・・・・でした。サンキュ、旨かった」
 遼は戸惑って瞬きをする。自分に対して礼を言われるとは思っていなかったからだ。
「作ったのは伸だぜ」
「俺が食ったのを作ったのは遼だろ?」
 当麻はごく明々白々なことのように首をかしげる。遼は大いに恐れ入った。なにせ今しがた遼が作ったのは、味噌汁の鍋の中に冷や飯を放り込んで卵を落としただけという、男所帯の食生活が容易にうかがえるような代物である。はっきり言って、卵が割れれば誰でも作れる。
「でも当麻」
「俺が生き返ったんだからいいんだよ」
 屈託なく当麻が言う。居心地の悪くなった遼は当麻の手から椀を取り上げると、流しに持って行って洗おうと踵を返しかけた。そのとき。
 何か柔らかいものがスリッパ越しに足の上を通り過ぎた。
「ん?」
 にー。
「ああ、いかん。忘れてた」
 何が通ったのかと首をひねった遼の視界の端に、とたたた、と歩みに合わせて揺れるグレイの尻尾がひっかかる。
 当麻が椅子から身を乗り出し、手を伸ばした。
「そら」
 にー。
 指の中に食べ物があるのかと期待でもしたのだろうか。伸び上がって小さな手で当麻の手のひらをかしかしとかいている、青みがかった灰色の生き物を見て、遼の目が丸くなった。
 猫、だ。それもまだ大人になりきれていないくらいの。
「当麻、この猫」
「連れてったんだこいつ仕事に。悪奴弥守がしばらくはぐれ妖邪の調伏でいないからって、俺のところに届けにきて」
「悪奴弥守?」
 また猫などとはつながりようもない人物の名が出たものだ。遼は理解できずに顔をしかめた。
 身をかがめて猫を持ち上げた当麻が、ひょいと目の高さまでかかげて見せる。
「そらちゃん。男の子ちゃんだ。飼い主は悪奴弥守、と一応俺。よろしくな遼」
「一応?」
「金出したの悪奴弥守だから」
 当麻の台詞にあー、と生返事をしつつ、遼は猫の顔を覗き込んだ。ぱたんと一回尻尾を揺らした猫はじっと遼を見つめ、ついで差し出した指をまたじっと見つめて「にー」と鳴いた。
 二人は顔を見合わせた。
「何を言ったんだ?」
「腹が減ったのかもな」
「このへんの野良猫がたまにきたときに食べさせてるキャットフードあるぞ。ちょっと待っててくれ」




 無精髭が生えている。
 猫をテーブルに乗せてキャットフードを食べさせる当麻を向かいの椅子から眺め、遼は今になってそのことに気づいた。
 まばらに伸びた髭、ばさばさに乾燥した髪、日焼けして鼻の頭が少し赤い顔。日焼けだって?ほとんど天岩戸一歩手前のインドア派の当麻が、なんと野生的ななりで現れたことか。遼ならずとも信じがたいことだ。
 尋ねずにいられない。
「当麻、仕事って?」
「発掘。ペルーに行ってきた」
 親父の知り合いの手伝いで、と話す当麻の灼けた腕にはくっきりと腕時計の跡がある。理系出身のくせに、相変わらず多角的な活動をしているようだ。もっとも、当麻に関してはかじっている学問どれもこれもで何かしら名を成しているせいか、本当は彼が何を専攻しているのか、もはや遼には見当もつかなかったりする。
「それで昨日の夜に関空に着いて、そこから親父の研究室に寄って教授のおつかい渡して、それからタクシー捕まえて高速飛ばしてここまで乗ってきて・・・・・・」
「ここまで!?」
「バスがとれなかったんだよ」
 溜息をつきつつ言う当麻の表情は、それでも仕方ないと割り切っているように見える。いったいいくらかかったのかと遼はにわかに頭痛をおぼえた。決して二日酔いのせいなどではないはずだ。
「それでもし秀と完全に行き違いだったらどうするつもりだったんだ、当麻」
 自分のことでもないのにぼやいてしまう。
「問題ない。確かに秀に会うのがメインの目的だが、秀にだけ会いたくて来たわけじゃないからな」
「・・・・・・・・・・・・」
 妙に自信に満ちた当麻の口調に、遼は何かを言いかけて結局口をつぐんだ。というより、面食らって言い返す言葉を失ってしまった。
 口の中が乾く。血圧が上がって、首の後ろの汗が急に冷たくなったような気さえする。
 落ち着け俺、と遼は己に言い聞かせた。仲間として、だし、当然、自分一人にだけ言った言葉というわけでもない。
 それでも遼は顔が火照るのを完全には抑えられなかった。無心にキャットフードにかじりつく猫に視線を移して、なんとか隠しおおそうとはしたけれど。




 遼は当麻のことが好きだ。
 仲間としてはもちろんのことだが、仲間としてでなくとも遼は当麻が好きだった。もう十年も前から。
 きっかけは単なる錯覚だったのだろうと心得てはいる。あのとき、伸も、征士も、秀もが立て続けに阿羅醐の手に落ち、共に戦えるものが己と当麻だけになって、頼みうるもの―――――頼れるものではなく―――――は正体も知れぬ白き輝煌帝のみという、そんな崖っぷちのような状況で・・・・・・そんな中で、遼は確かに今までのどんなときよりも強く願ったのだ。これ以上、当麻までも、誰にも奪わせはしないと。
 それは極限状態がもたらした自己防衛のための執着だったのだろうし、たまたまその場に残されていたのが自分と当麻だけだったという、多分に偶然性を含む理由があってのことだろう。それは遼自身も認めざるを得ない。
 なのに戦いが終わった後も、なぜかその執着だけは遼の中にしっかりと根を下ろしてしまった。
 あの当時、自分の知らぬところで怪我をしてはいまいか、疲れてはいまいかと思うからこそ向けていた自分の視線に、征服欲のようなものが混じり始めたことを悟ったときには、もう手遅れだったほどに深く。
 ナスティでもよかった。あれほどにも激しく剣を交えたのだから、迦遊羅だってよかったはずだ。それなのにどうして彼を―――――正直なところを言えば、そんな風に悩むことなど、本当はなかったが。
 気づいたときには、彼が自分の心を占める割合が誰よりも多くなっていたというだけのことだ。あのとき自分の目の前で、妖邪兵の刃を全身に浴びて崩れ落ちた当麻の姿に、遼は己の心の動きに疑問を持つことをそれっきりやめた。
 失わせない。そのあまりに強い望みに遼は迷いなく自分の心を転化した。それだけのことなのだ。
 今も。
「よく食うなー。まあ夕飯ろくに食ってないし仕方ないか」
 かつかつと皿に歯を当てながら残ったキャットフードを舐める仕草に当麻が苦笑する。その苦笑いが不意に遼を向き、遼は少しばかり慌てた。
「何?」
「いや、とっとけばよかったなって。さっきの猫まんま」
「あー・・・・・・え?」
 猫を眺めていながら自分の考えに没頭していた遼は、ぼんやりとそんな返事をして会話を受け流しかけた。がその直前に、看過できない台詞があるのに気づいて思わず聞き返した。
「犬まんまだろ?」
「ん?俺ん家の周りじゃ昔っから味噌汁ごはんていったら猫まんまだぜ」
 こともなげに当麻は言う。遼はしばし沈黙した。思いもよらぬところで東西文化摩擦を実感した気分である。まあ、別にどっちが正しかろうがかまいはしないが。
「もういいか?腹一杯か、そら?」
 身をかがめるように猫の目を覗き込んで話しかける当麻の、Tシャツの襟からわずかに見える鎖骨に遼はどきりとした。もう少し襟を広げれば首のつけ根まできっと現れるだろう。
 おととしの夏、衝動に負けてそこに噛みついた。弾力のあった皮膚の歯応えも汗の苦味も、遼にはつい昨日のことのように思い出せる。
 意外なほど熱くて柔らかかった舌の感触も。
 猫が満足そうに身体を伸び上がらせて、にぃ、と鳴く。当麻の目が細くなる。普段は征士に負けず劣らずの怜悧さなのに、こんなときばかり生来の垂れ目が強調されて、二つ三つ幼いくらいの顔になる。
 ああ、まずいな。遼は思った。また負けてしまいそうだ。
 当麻の今の身なりなど、どうやら遼にとってはものの数でもないようなのだった。




 猫が食事を終えたのを機に当麻は立ち上がった。汚れた皿をキッチンへ運んで洗い、返す足でダイニングには戻らず、そこを突っ切って居間へ向かい、またごろりとソファに横になった。テーブルからぴょんと飛び降りた猫は音を立てぬ足取りで当麻を追い、ソファの足元で丸くなる。遼も後へ続き、向かいのソファに腰を下ろした。
「遼は最近どうしてたんだ?」
 寝転がった姿で当麻が遼を見た。遼は答えた。
「おととい、俺宛の依頼で三件目の仕事がきたよ」
 青い頭がひょいと持ち上がる。
「すごいじゃないか。順調だな」
「まだまだ代理やなんかでくる仕事のほうがメインだけどな。俺の名前で仕事が取れるようになるのはまだまだ先だよ」
 いつかそうなってみせるけれど。口に出さない決意は明らかで、だから当麻もあえて言葉にはしない。
「こないだの雑誌の写真は代理のやつ?あの車の旅特集」
「ああ」
「あれいいな、湖の色がすごく綺麗で。行きたくなる」
「ありがとう。征士にも言われた」
「やっぱり?あいつは定期購読してるからなあの雑誌」
 さもあらんという顔をして当麻は笑った。その顔を見て、遼はまたひそかに息を呑む。
 あまり考えたくないことだが、もしかして彼は目の前の人間が、二年前に彼相手に一大告白をやってのけた人物だということをすっかり忘れているのではないのだろうか。
 もしくは根っから鈍感なのか、またはあえて無頓着を装ってうやむやのままに流してしまおうという逃避の行動なのか。・・・・・・後者に違いないと遼は思いたかった。曲がりなりにも相手は智将・天空だ。覚えてくれていてしかるべきと考えるのが人情ではないか。
「疲れてるっぽいな、当麻」
「飛行機でろくに眠れなかった。隣に座ってた子供が何かっていうと話しかけてきて」
 ソファに飛び乗ってきた猫の耳の後ろを掻いてやりながら当麻が言う。半分伏せられた睫毛の下で青い目が翳る。
 迷惑そうな口ぶりでいながら、彼が実はわりあい子供好きであることを知っている遼は、案じるような口調をやわらげて返事をした。
「・・・・・・お前が眠れないなんて珍しい」
「ちょうどいちばん眠いときだったから、ピーク過ぎちまったんだよな」
 苦笑を浮かべた口元からもれた息が前髪を揺らす。あくびをかみ殺した目元がわずかに潤んだように遼には見えた。
 ああもう。
 疲労と寝不足で面やつれしながらもくつろぎきった様子の当麻から何の電波を受信したものか、頬が熱くなるのを止められない遼である。自分の前でこういう顔を見せるなと、だからあのときも忠告したというのに。彼はまったく学んでいない。
 いや、学ぼうとしないのだ。何のために?―――――決まっている。
 そらっとぼけるために、だ。自分の想いと、その返答とを。
「うあー」
 ばさばさの青い頭が突如がくりと下がった。
「寝る。限界」
「あ、ああ」
「おやすみー。征士帰ってきたら起こして・・・・・・」
 もぐもぐと呟き、脇腹の上に猫が寝そべるのにもかまわず当麻はすぐに動かなくなった。眠りにつくときの切り替えの早さというかなんというかは、さすが伸称する「万年寝太郎」の面目躍如である。昔から知ってはいたものの、実際当麻が寝入る瞬間を目の前で見たのは初めてだった遼は、少しの間唖然としてしまった。もうちょっと準備段階とか、そんなようなものが本当はあるものなんじゃないだろうか。こうまでいきなりか。
 こんな相手を空の上で起こした自分はもしかしたらものすごく偉かったんじゃないか、などといまさらな感慨に浸ってしまう。
「・・・・・・あ」
 我に返ると、伸に言われたことを征士に連絡していない自分に気がついた。完全に寝入ってしまったらしい当麻をおいて二階へ上がり、自室の床に放っていたリュックからPHSを取り出して征士の携帯に電話をかける。用件を伝えて切ると、遼はそのままベッドに腰掛けて溜息をついた。
「はー」
 だいたいさっきの表情は反則なのだ。
 あばたもえくぼとはよく言った。いくら睡眠不足で鼻の頭が光っていようが目の下に隈ができていようが三、四日髭をあたっていなかろうが、それしきのことでこの自分の恋心や下心がおとなしくなってくれるわけがないのだ。そういう目論見があってわざと髭面のまま現れたのなら、当麻もご苦労なことだと遼は思った。
 こっちは十年越しだ。
 その程度の目くらましでなんとかなるなどと、なめてもらっちゃ困るのだ。
 頬杖をつき、スリッパの爪先を床でぱたぱたさせながら遼はしばし考え込んだ。ややして立ち上がると、いささか決然とした面持ちで部屋を出、階下に降りていった。




 居間に戻った遼は、当麻の様子を見て一瞬言葉を失った。
 先刻まで肘置きを抱えるようにしてうつ伏せの姿勢でいた当麻は、いつのまにかソファの上で器用に寝返りを打っていた。下が平らなベッドであれば、これはきっと見事な大の字だったろう。
 犬猫が腹を上にして寝ている図。表現としては、それがもっとも近い。
 でかいなりをしておいて、まったく子供のような寝相だ。ナスティなら揺すって二階へ促し、秀なら寝顔にマジックで落書きをして笑い、伸なら冷淡な一瞥をくれてやった後でタオルケットをかけて立ち去り、征士なら額に一撃をくれてから「だらしがない」と小言を述べるだろう。
 しかし遼は違った。
 不覚にも赤面した。
 こんな怠惰を絵に描いたような姿にでもときめくことができるのだから、本当に恋というのは不可思議なものである。遼の目に映ったのは、枕がないせいでわずかに仰向いた顎から続く喉笛や、身体のひねりにつられてほんの少しまくれ上がったTシャツの裾から覗く臍や、頭の後ろに回された腕の裏側などばかりで。はっきり言って、今の遼に見せてはいけないもののオンパレードだ。
 ソファから滑り落ちた片足の腿に猫が眠っているのも、遼にとっては構図のアクセントとしか考えられなかった。
 足が引き寄せられるようにソファへ向かう。足音の響きで目覚めたか、ぴくりと起き上がった猫はにぃ、と抗議するように鳴いて当麻の腿から飛び降り、小走りに窓際へ行ってそこで再び丸くなった。
 それでも当麻は目を覚まさない。「叩き起こすのがためらわれる」といつか征士に言わしめた熟睡ぶりで(しかし彼は結局叩き起こすのだが)、じつに気持ちよさそうに眠っている。遼は大きく吸った息を飲み込んだ。
 これは俗に言う、あれだ。
 据え膳というやつだ。
 少なくとも、それに近いものだ。
 遼は当麻の顔のそばに、両膝をついてかがみ込んだ。ぽかりと口を開けて眠る当麻は、よく聞けばかすかにいびきまでかいている。普通の男ならここで多少は気分が萎えるものなのだろうが、やはりというかなんというか、それしきのことでへこたれてしまわないくらいには、どうやら遼は普通の男ではないらしいのだった。
 遼が思ったのはただ、今なら舌が入れやすそうだなあ、ということだけだ。
 恋する男は強い。
 そんな普通でない遼は、片手をソファの背もたれにつくと、すかすか眠る当麻に覆いかぶさるようにしながら、反対の手を当麻の髪の中に差し込んだ。
 南米の日差しと水にさらされたのだろう青い髪はひどく乾燥して切れそうに傷んでいて、遼が何年もの間この指で梳いてみたいと焦がれていた想像の中の手触りとはずいぶんかけ離れていたけれど、それでも遼はその指通りの悪い感触に感銘を受けずにはいられなかった。少なくともこの髪からは、いつもの当麻の髪にはない日なたの匂いがする。
 炎を司るものの性か、それが遼には妙に嬉しくて。
 ああ、どうしよう。
 大好きだ。
 顔を傾け、遼は当麻の頬にキスをした。唇はすぐに滑り、寝息を立てる唇を覆った。
 タクシーの中で喫っていたのか、かすかに煙草の味がする。銘柄が何かを考えるほどのゆとりは遼にはなかった。先刻自分が思い浮かべたとおりに舌を差し入れ、口の中をまさぐる。
 そこはこの間と変わりなく熱かった。遼は我を忘れそうになった。
 というか一瞬で忘れた。
「・・・・・・!」
「!」
「!!」
 どこどこどこ、と背中を叩かれてこっちの世界に戻ってきたのはいったいどれくらい時間がたったころなのか。気がつけば当麻の頭を両手で掴み、全力で唇をむさぼっていたらしい自分に遼は驚いて顔を上げた。
 呆然と見下ろす先には、真っ赤な顔で、肩で息をしている当麻がいる。怒りよりも驚愕が先に立ってしまっているらしい姿はおととしとまったく同じで、遼は思わず笑いそうになった。
 それでこそ彼だ。見てくれが多少変わったとて、彼はどこも変わらない。
「おはよう、当麻」
 我ながらまぬけた台詞だと思ったが、当麻は口をぱくぱくさせたまま言葉もない。何かを言いたいらしいが、言いたいことがありすぎて何から言えばいいのか整理がつかないらしい。
 まったく、なんて愛しい存在だろう。我らが軍師殿は。
「こんなのでこんなすぐに起きるんだったら、もっと前からやればよかったな。俺はずっとしたかったのに」
「・・・・・・め」
「ん?」
 苦笑まじりに言うと、そこで初めて当麻の口から声が出た。何かと思って聞き返せば、
「目覚ましかい・・・・・・」
「それは関東のつっこみだろ、当麻」
 今度は本当に苦笑しながら指摘する。再び覆いかぶさると、息苦しさに涙の浮いた目が大きく見開かれるのが見えた。
 上気した頬、濡れた目蓋と唇。その唇に視線が吸い寄せられる。
 もう一度、したい。
「好きだよ」
 小声で告げると、眼下の身体がわずかに揺れた。それに力を得て、遼はさらに顔を近づけた。
「当麻が好きだ」
「・・・・・・なんで」
「なんでかな。俺もよくわからない。でも好きだ。みんな好きだけど、当麻だけ違う好きなんだ」
 言葉を発するたびに当麻が震えるのを遼は注意深く見守った。連呼することで絆している自分を遼は自覚している。
 好意を注がれることに対して、彼はひどく弱い。生まれ育った家庭環境と、誤解を招きやすい言動や特質が彼をそういう人間にした。遼自身同じだから遼にはそれがよくわかるのだ。以前は彼のその弱点につけこむことに抵抗があったが、もはやそんなことを言っていい子にしていられるほど、遼に余裕は残っていない。
 手札は有効に使うものだ。遼にそう教えたのは、他ならぬ彼なのであるし。智将・天空としての彼ならば、きっと自分の成長ぶりを称えてくれるに違いない。
 長く伸びた前髪をかきあげて後ろへ流してやると、汗ばんで冷えた額が手のひらに貼りついた。顔はまだ赤いのに冷たい額。緊張している。当麻が自分に。無性に嬉しくなって、遼は笑みを浮かべた。
「当麻は?」
「・・・・・・・・・・・・」
 問いかけられた当麻が困惑気味の目で口を開いたところに遼はまたキスをした。くぐもった唸りが消えるのを見計らって舌をからめる。自分で訊いておいて勝手なことをしてるなとは思ったが、引力に逆らうことなどできなかった。
 顔を押さえていた指で耳の輪郭をなぞると、塞いだ唇がぶるりと震える。
 ここが弱いのか、と思った。さらに嬉しくなった。
「―――――っ」
 また背中を叩かれたのに応じて顔を離すと、まるで水からあがった直後のように当麻がぷはっと大きく息をついた。
 そのまま何度も深呼吸する様子に、遼は小首を傾げた。
「鼻で息すればいいのに」
 学生時代、当麻が決して女にもてなかったわけではないことを遼は知っている。できると思ったからこそ手加減しなかったわけで―――――できなくても加減がきかせられたかはさておき―――――当麻のリアクションは遼としてはかなり意外だった。
「おま・・・・・・さっきから・・・・・・好き勝手」
 ようやく呼吸が整ったらしい当麻が切れ切れに文句を言うのを聞いて、遼は苦笑いしてうなずいた。
「そうだな、すまん。でも、したかったから」
「・・・・・・遼・・・・・・」
 溜息。脱力。持ち上げた右腕を目隠しするように額に乗せて、当麻はまたひとつ深呼吸をした。
「かなわんな・・・・・・」
 呟き。また溜息。言葉を組み立てようとするその姿に、遼は神妙に次の台詞を待った。
 動く唇が唾液で光っているのにまたも衝動を起こしそうになったが、今度はなんとか自制した。




「・・・・・・俺が忘れたふりをしてれば、そのうちあきらめるかと思ってたんだが」
 どれほど待たされたか、当麻がぽつりと言ったのはそんな言葉だった。
 遼は手を伸ばして当麻の前髪を梳き、それに応える。
「俺はそんな器用じゃないぜ」
「知ってる」
 にべもない評価に遼はぴくりと片方の眉を上げた。当麻のほうはそれに気づかないか、気づいて知らぬふりか、ともかく表情を変えないまま言を継ぐ。
「でも、俺はそれを期待してた」
 そして遼の表情をちらりと見、自分の言ったことに覆いかぶせるように言葉を重ねた。
「迷惑とか、そういう意味じゃなくて。―――――俺が、冷静な対応ができないから」
「冷静」
「今だって・・・・・・俺だってキスのしかたくらい知ってる。のに、うまくできなかった、遼には」
「・・・・・・・・・・・・」
「そういうのは苦手なんだ俺は」
 当麻の台詞を、遼は黙って反芻した。
 彼の言うことをそのまま鵜呑みにすれば、つまり自分は彼にとって、彼のペースで物事を運ぶことができない相手、ということになる。やりかたを知っているはずのキスの手順をとっさに使うこともできないくらいには。それは、少なくとも遼にとっては喜ばしいコメントだった。
 ひとつ気になることがあるとすれば、彼の口ぶりでは、どうやら彼には自分とのキスに際してそのあたりを比較するのに適当な相手がいるらしい、ということだ。気にならないといえば嘘になる。というか元来気の短いたちの遼からすれば、今すぐにでも相手の名を問いただしてそいつと直談判でもしたいところだったが、今は少なくとも彼の立場をくんで、その件については不問にしておこうと遼は思った。
「当麻、それって、俺相手じゃ理性的になれないってことなのか?」
 そんなふうに余裕を持っていられるのは他でもない、その相手になら冷静に対処ができる、と彼自身が台詞の中で告げているからだ。
 遼の言葉に、当麻は憮然と口元を歪めた。不本意だが認めざるを得ない、とでも言いたそうな表情である。
「当麻?」
 そのままソファの背もたれのほうに顔を背けようとする当麻を遼は押しとどめた。左右の耳たぶを両手で挟むようにして頬を包み、目を覗き込む。
「当ー麻」
 至近距離での呼びかけに、への字口のまま当麻は顔を赤らめた。ぼそぼそと低い声がした。
「・・・・・・多分」
「多分?」
「多分」
「本当に?」
「多分、だ」
 揶揄めいた口調で尋ねる遼に強硬に当麻は言いつのる。遼は笑った。多分、ね。
「まあ、いいよ。俺けっこう気が長いほうだから」
「嘘つけ」
 間髪入れずに否定され、苦笑するしかない遼である。十年も待ったというのに、なんてつれない。
 けれど、そんな彼が自分はとても好きなのだ。ずっとずっと前から、もう手の施しようもないほどに。
 頬を包む両手に力をこめ、遼は口を開いた。
「キスしていいか、当麻」
 唐突な申し出に当麻の目が丸くなった。いまさら何をかいわんや、という目つきが遼を射る。遼は軽く肩をすくめた。
「俺だって相手の意思くらい尊重するよ」
「じゃあさっきまでのはなんだよ・・・・・・」
「さっきまでは、ただの片想いだっただろ」
 遼の言わんとするところを当麻は正しく察したらしかった。遼がじっと見つめる中当麻は固まり、ついで赤面し、それからもぐもぐと口の中で何事かを呟いて、しまいに盛大な溜息をついた。
「・・・・・・自信家・・・・・・」
 言葉と裏腹に血の気を帯びたままの頬に遼は笑って唇を落とす。でもそういう奴わりと好きだろ、と小声で囁くと、唇の触れているこめかみがかっと熱くなるのがわかった。
 う、わ。
 そんな様子を見せられて平静を保てる遼ではない。身を起こし、見間違えようもなく真っ赤になっている当麻の顔を確認する間もあらばこそ、遼はみたび目前の唇に己のそれを重ねようと覆いかぶさった。そのとき。




 がつ。




「!?」
 ふくらはぎの下あたりにいきなり走った鋭い痛みに遼は思わず頭を持ち上げた。何事かと首をめぐらせた遼の目に飛び込んだのは、いつの間に目覚めたのか、短い毛を精一杯ふくらませ、尻尾を立てて唸り声をあげる灰色の猫。
 にーっ。
「・・・・・・そら!」
 慌てたような当麻の叱責にも背中を丸めて「ふーっ」と唸り、猫は急に身を翻すと階段へ走っていってしまった。その後を追いかけようと身体を起こしかけた当麻は、なりゆきを呆然と見送ってしまった遼に捕まったまま身動きがとれないのに気づき、「遼!」と短く叫びをあげて拘束者の意識を呼び戻した。
「え?」
 耳のそばで大きな声を出され、我に返った遼がきょとんと当麻の顔を見る。
「何ぼっとしてるんだ、お前が怒っていいんだぞ」
「ああ、なんか・・・・・・突然すぎて」
 びっくりしたままの口調で言う遼に当麻は深々と嘆息する。その遼はぐりっと身体をひねり、床に膝をついていたせいで露わになっていたふくらはぎを見下ろしてみた。
 爪を突きたてられてできた赤い痕はあるものの、特に血が出たりはしてない。
「・・・・・・一応、加減はされてたみたいだな」
 感心するような口ぶりの遼の台詞を聞き、不意に当麻の口元がぐにゃりと歪んだ。呆れかえるのかと思えばさにあらず、
「・・・・・・・・・・・・」
「笑うなよ、当麻」
「・・・・・・いや・・・・・・」
 遼の言葉だか表情だかいったい何がつぼに入ったのか、下を向いた当麻は肩を震わせて笑っている。むすっとした遼をちらりと見、肩の揺れはますます激しくなった。
「お前やきもち妬かれてるんだ、そらに・・・・・・」
「だから笑うなって」
 不機嫌さを隠しもせずこぼす遼に、「悪い悪い」と口ばかり謝りつつ当麻はしつこく肩を震わせ続ける。
 その姿を憮然と見下ろし、遼はこの失礼な人物をどうやって黙らせようかと、それだけを考えて頭をめぐらせた。キスしかないだろう、これは。
 当然。
 彼がなんと言おうとも。






<END 2004.9.29>
title:コイシイアナタ



えーと一応決着になるのかなんなのか。
本当に真田さんは遠くに行ってしまったらしいよ・・・・・・でもこんな遼が好きだよ。
文末のタイトルはDLF用。3周年アリガトウゴザイマシタ。  









もっ、貰ってきてしまいました、マサトさんちの3周年企画のDLFですっ!!
うわぁん、おめでとう御座います、おめでとう御座います、っていうか、ありがとうございますーっ!!
こそーっとたまーにお邪魔させて頂いてたんですが、こりゃもう、くれるっつーのは貰っとかないと!(こらっ)
このお話、過去に噛み付いたお話の続きですねっ。
あれにもドキドキさせられましたーvvvすっげぇ好きなんですよっ。
もぉ。どうしましょう。この遼の、羽柴への惚れっぷりったら、どうなのよ!!!
悶々と頭の中で考える遼が、めちゃめちゃツボにきます。
そのくせ、タガが外れたら突っ走り〜♪
いけいけGOGO。
そうよね、羽柴は何しててもどんな格好でも魅力的なんだよ(笑)
逃げ切れませんでした、羽柴。
ってか、当麻かわえ―――っvvv
かなわんな・・・って、うぎゃーっvvv
遼の前では冷静でいられないなんて、もうっ、大告白してるっつーのっvvv
何ていうんでしょう。遼の心の動きがガッツンガッツン伝わってきて、可愛い羽柴を自分が目の前にしているような錯覚に陥ってしまうほどにドキドキさせられましたっvvv
いやー、惚れた。やっぱ好きっ。
こうして私は、また柴受けから脱する道を失っていくわけなんだ・・・(爆)
でも・・・・あー幸せっvvv
有り難う御座いました、マサトさん。頂いちゃいましたっvvv




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