侍騎兵 秀当
      



07

 やっとと言うべきか、とうとうと言うべきか。秀の運転する車は、当麻のマンションの前に到着した。のだが、当麻がなかなか車から降りようとしない。そうするうちに後ろから別の車が来てしまったので、秀は邪魔にならない場所まで車を移動させて、エンジンを切った。
「……あの、当麻?」
 いつまでそうしているんだろう、と不安な気持ちで問うてみると、当麻はやっとのことで口を開いた。
「まだ、言ってないから」
 ああ、そういえば。と秀は思い出した。『さっさと言っておく』とかなんとか、当麻は確かにそんなようなことを言っていたのだ。さっさと、って、全然さっさとじゃないじゃん、と秀は思いつつ、なんだか嫌な汗が背を流れるのを感じていた。が、そんなことは表面には出さないように気をつける。
「ああ、何だったんだ? ……あのな、俺、何を言われてもいい。覚悟はできてるから、何でも遠慮なく言ってくれ」
 これは秀の本心だ。いや本当の本心を言えば、今の自分に追い討ちをかけるような類のことは言われたくないのだが、でも、当麻にならたとえ死ねと言われても良いとも思う、これも本心なのだ。仕方が無いと思える。それだけのことを、自分はしたのだと思っている。もし自分が誰かに同じコトをされたら、と想像すると、今こうして一台の車に乗り込み同じ空気を吸っている、そんなことすら耐えられないだろうと思う。そこまで考えると、当麻に対してまた居た堪れなくて仕方が無い気持ちになって、何を言われてもされても、などと悲壮な覚悟を決める秀だった。
 と、当麻が盛大なため息をついた。
 なんだ、と秀は身構える。そんな秀をちらっと一瞥した当麻は、億劫そうに身体を動かして車を降りた。
 秀は、まだ何も聞いていない。
 だが当麻は、黙って助手席を降りて車のドアを閉めてしまった。
 とぼりとぼりと自宅に向けて足を運ぶ当麻が、秀の車をぐるりと回って運転席の横に差し掛かった時、秀は思い切って窓を開けた。これで本当に最後なのだから、後悔はしないように。やっぱりあの時ちゃんと聞いていれば良かった、なんて思わないでいいように。
「当麻! お前の話……ちゃんと聞きたい。聞いても、いいか?」
 すると、当麻が運転席の真横で足を止めた。そして、運転席から顔を出している秀を見下ろした。当麻が、またそっと小さなため息をついたのが、秀にもわかった。
「あのさ」
 当麻が言った。
「あのさ」
 また当麻が言う。秀は次の言葉を待っていたのだが、当麻は突然くるっと向こうを向いて、またとぼりとぼりと自宅に向けて歩き出した。えっ? と思った秀の耳に、当麻の声が小さく届いた。
「今度からは、どうしようもなくなるにしても、せめて週末にしてくれ」
「…………」
 当麻は何を言った?
 秀が目を丸くして固まる間にも、当麻はゆっくりな足取りながらも、秀の車からどんどん離れていく。
 秀は、文字通り転がるように車から飛び出して、当麻の元に走った。
「当麻?」
 当麻に追いつき、彼の前に立ちはだかった秀の表情は、必死、だった。
「当麻、ちょっと待て……今の、今の……えっと……」
 必死になりすぎて、日本語も不自由になっているらしい。
 当麻は呆れたような表情を作りつつ、秀の横をすり抜けて、自宅に向けて足を進めた。
「ちょっ……当麻、待ってくれ!」
 叫んだ秀を振り向くことのないまま、当麻がぶっきらぼうな声を出した。
「だから。言ったとおりだ。本当に辛かったんだよ、今日は! こんなことがしょっちゅうあったんじゃ仕事にならない。……だから。週末以外は禁止。これだけは何が何でも譲らないからな」
 秀がまた当麻の前に駆けてきて、縋り付くような瞳で見上げた。
「……今、なんて……?」
 犬コロみたいなヤツだな。なんてことを思いながら、当麻は少し言いよどみつつ、ぷいっとそっぽを向いてから言った。
「お前、勝手になんでも決めつけるのもたいがいにしろよ。俺は、お前と縁を切るだとか、そういう類のことは一度だって言ってないんだからな!」
 当麻の言葉を聞いた秀が、目を丸く見開いたまま、その場でガクリと膝を折った。
「……え? ちょ、おい秀、何やって……」
「えっ、あれ、力、抜け…………やばい、俺、あれ? 立てねぇ……?」
 身体的にも精神的に張り詰めて頑張り続けていた秀は、ここで緊張の糸がプツリと切れたらしい。
「ちょっと待て、秀っ。俺も動けないんだぞ!」
 思わず叫んだ当麻だったが、秀はというと、彼なりに必死に動こうとするものの、身体が全く言うことを聞かないらしい。
「あは……あはは、悪ぃ、気にしないでいいから、当麻、お前は帰れよ……」
 その場に座り込んだ秀が、笑いながら当麻に言った。だがその顔は俯いており、その声は震えている。
「しょうがないやつだなぁ」
 呟いた当麻は、へたり込んでいる秀の背に自分の背を預けるようにして、一緒にその場に座り込んだ。
「何やってるんだ、帰れよ当麻っ」
 秀が怒ったような口調で言うのに、当麻は飄々と答える。
「お前のおかげで辛いんだ。責任持ってちゃんと俺を家まで送れよ。……少しくらいなら、お前が立てるようになるまで待ってやるから」
「なんで……!」
 言いかけた秀は、ぐいっと目元を拳で拭って、ぶつぶつと小声で愚痴り始めた。
「当麻の考えてること、判んねぇよもう。ストレートに言ってくれなきゃ、俺には理解できねえのわかってるくせに、なんでそんな考え込ませるんだよ、俺は裏なんて読めねえんだよ」
 そんな秀の愚痴を背中で聞いた当麻は、「あれ、もしや?」と思いつつ応えてやる。
「ストレートに受け取りゃいいだろう。なんだよ、脳味噌まで筋肉になっちまったってんじゃないだろうな」
 すると秀がものすごい勢いで動いたかと思うと、あっという間に当麻の襟元を掴み上げた。そして、当麻に顔を近づけた秀は、見ようによっては泣きそうにも見える表情で、低い声で唸った。
「俺の足りない頭でそのまま受け取れば、当麻、お前はまた俺に犯られちまってもいいって風にしか聞こえねぇんだよ。馬鹿か。そんなことがあるわけねぇ、そんくらいは俺にも判るよ。だったらさっきのお前の言葉はなんなんだ。全く判んねぇんだよ、俺だって寝てねぇんだ、しかも自分のやったことでお前と縁切りだ、俺の人生で今が一番辛ぇときなんだよ、細けぇことに脳味噌なんて回っちゃくれねぇんだよ、俺が全部悪いんだ、それはよっく判ってる、でも俺の脳味噌には限界ってのがあるんだよ!」
 まさかとは思ったが、完全に混乱しちまってるのか。と、目を丸くして秀の話を聞いた当麻は理解した。
 自分はかなりの勇気を振り絞って、かなりはっきりと告げたつもりだったのに、逆にそれが秀には信じられなさすぎる内容だったために、受け入れてもらえなかった、ということらしい。
 がっくり。と力が抜けた当麻だったが。
 しかしそれはつまり、それほど秀は思い悩んでいたということか。それほど自分に対する彼の想いは強かったのだと、そう思って……いいのか?
 それにしてもだ。
 全く、世話の焼ける。いやまぁ、俺も他人のことは言えないけど。
 と思いながら、当麻は自分の襟首を掴んでいる秀の両頬をぎゅっと抓った。
「ひ、ひれれれれれ……」
 容赦なく抓ってやったから、かなり効いているはずだ。そうしながら、当麻はゆっくりと言い聞かせるように口を開いた。
「だから、捻くれてないでストレートに言葉を受け取れと言っている。こっちだって、お前の日本語スキルくらい充分判ってるんだよ。おかしな誤解を招くような言い方なんて、よっぽどじゃなければするもんか」
「今はよっぽどの事態じゃねぇのか! 少なくとも普通じゃねぇ!」
「…………あ、なるほど」
「ほら見ろー!」
 って、そうじゃなくて。
 当麻は、今度は両手で秀の頬を軽くぺちぺちと叩いてやった。ゴツい秀に襟元を掴まれているので、このくらいしか動けないのだ。
「判った。お前がそう言うなら、もっとストレートに言ってやる。その代わり、俺にこれを言わせるツケはでかいぞ」
「ああ、言ってみろ。聞いてやらあ。とことん聞いてやらあ!」
 秀は、売り言葉に買い言葉を体現している。やけくそになっているらしいな、と思った当麻は、思わず笑ってしまった。
「なっ、何がおかしいんだ!」
 このまま引き伸ばしていると、ますます秀がエスカレートして、それこそ何を言っても信用してもらえなくなりそうだ。そう思った当麻は、ゴホンと咳払いをして秀を見つめた。
「…………」
 ダメだ、照れる。ていうか本当はこんなことを言うのは不本意なんだ。さっきのあの言葉ですら、言うのにこんなに時間が掛かったっていうのに。
 なんてことを考えれば考えるほどに、当麻の心臓がバクバクと激しくなってきた。
 やばい、眩暈起こしそう。
 そんなことを思った当麻は、不本意ながらカーッと熱くなってきた顔が秀の目にはどのように映っているのだろうかと思い、秀を睨み付けた。
 一方、赤い顔をした当麻が少し涙目になって見つめてきたことに気がついた秀は(この期に及んでも睨まれているようには見えなかったらしい)、急に心臓がドキドキしてくるのを抑えられなかった。
 今更何故このような目で見つめてくるのか。
 いや待てよ、まだ俺をいじめ足りないんだ、だからこうしてからかうようなことを!
 そんなこんなで、秀の頭の中がまたぐるぐるし始めた頃、ようやく意を決した当麻が口を開いたのだった。
「いいか、よーく聞け。まずひとつ。俺は、お前と縁を切るつもりは無い」
「…………?」
「これは理解したか? 裏なんてない、言った通りだ」
「え……っと。……え?」
「お前と、縁を切ることは無い。俺は、お前を嫌っていない。言葉どおりに受け取れってば!」
 目を真ん丸くしている秀の顔を眺めた当麻は、仕方が無いなというようにため息をつきつつ、話を進めることにした。
「そして、もうひとつ。縁を切らずにいることで、お前がまた、その、どうしようもなくなるとか、そういうことがあった時には……」
 ちくしょう、言うのか。
 当麻は大きく深呼吸をして、まっすぐに秀を見つめた。
「週末だったらヤってもいいぞ。間違えるなよ、翌日仕事がない日限定だ。……オーケー?」
 秀は、固まっていた。
「……な、今のちゃんと聞いてたか?」
 思わず不安になって問う当麻だった。



 そして二人は、昨夜と同じようにひとつのベッドにきゅうっと横たわっている。
 秀の心身を考えると、ひとりで車を運転して家に帰すのは危険と判断した当麻が、半ば無理やり秀を家に連れ込んだのだ。幸か不幸か、今日は週末だ。今朝のように、明朝仕事のために始発で帰る必要も無い。
 そして、どうも当麻の言ったことをイマイチ理解し切れていないように見える秀の様子に、当麻はいろいろ考えた挙句、今夜も一つのベッドで寝てやろう、というある意味思い切った方法をとることにしたのだった。言葉で言って判らないなら、態度で示してやろうということだ。これが秀の理解に繋がるかといえば甚だ怪しいところだが、とりあえず今自分ができるのはこれくらいしかない、と当麻は思ったのだった。
「……すまん、当麻」
 やがて、ようやく落ち着いた声音を出し始めた秀に、当麻は笑みを零した。
「やっと俺の言葉を素直に聞き入れようという気になったか?」
 そう言ってやると、秀が頬を膨らませて不満そうな声を出した。
「だってさ……」
「なんだよ、お前もたいがいしつこいな、いつもは馬鹿がつくほどに素直なのに。俺がどんだけ恥ずかしい思いをしてあんなことを言ったか、全くありがたみが判ってないんだな」
 つい零した当麻のこの愚痴に、秀は黙ったまま何も応えなかった。
 なんとなく怪訝に思った当麻が、秀の顔を見てみると。
「あっ、お前……!」
 思わず声を上げる。当麻が目にした秀は、その頬をこれ以上ないくらいに緩ませていたのだった。
「くそう、もう知らん。寝るっ!」
 恥ずかしさがめいっぱいこみ上げてきた当麻は、秀に背を向けるように寝返りを打った。
 その背後から、秀が恐る恐る手を伸ばしてきた。その少しビクビクしている素振りに、当麻はどう反応すべきかと迷った。
 思い切ってガバッときたなら、馬鹿とでも言って払いのけることもできるのに。
 思ううちに、秀の腕が当麻の身体を包み込む。
 ぎゅっと抱きしめてきた秀が、ほうっと穏やかな息をついたのを背に感じて、当麻は今は色々と迷うのをやめることにした。
 とりあえず。自分のことを秀がちゃんと信じてくれるのなら。それに越したことは無いのだ。
 当麻は、少し緊張しているせいで身体に篭ってしまっている力を抜いて、自分を包んでいる秀の腕に身体を預けた。



      
侍騎兵 秀当